AI時代に、僕は「判断の民主化」を取りに行く。
産業革命、インターネット、SNS、そしてAI。人間の自由の余白が少しずつプラットフォームに吸収されていく時代に、僕は「えらぶ」ことを人間の側へ取り戻したい。
SENDAI ERABU EDITORIAL
AI / DECISION
AIに思考を渡す時代だからこそ、意思だけは人間から始める。
FOUNDER ESSAY / 002
“AIに思考を渡す時代だからこそ、意思だけは人間から始める。”
僕は、AIの時代をそれほど楽観的には見ていない。
AIが人間を幸せにするのか。
仕事を楽にするのか。
創造性を広げるのか。
もちろん、そういう側面はある。
僕自身、AIを毎日のように使っている。
それでも、もっと大きな時間軸で見ると、人間は便利さと引き換えに、少しずつ「自由の余白」を手放してきたように思える。
産業革命は、身体の時間を機械に合わせた
産業革命によって、人は農村から都市へ移り、工場で働くようになった。
それ以前の生活を理想化するつもりはない。
農業には農業の厳しさがあり、身分や土地に縛られた生活もあった。
ただ、工場という生産システムが広がったことで、人間は機械の速度、始業時間、終業時間、生産工程に自分の身体を合わせるようになった。
機械が人間に合わせるのではない。
人間が機械に合わせる。
効率は上がった。
大量生産も可能になった。
社会は豊かになった。
その代わり、人間の時間はより細かく管理されるようになった。
インターネットは、情報の自由を広げた。そして奪った
次にインターネットが来た。
世界中の情報にアクセスできるようになった。
誰でも発信できるようになった。
これは間違いなく、人間の自由を広げた革命だったと思う。
でも、スマートフォンとSNSが生活の中心に入ったころから、少し違うものになった。
僕たちは、自分が何を見るかを自由に決めているつもりでいる。
本当にそうだろうか。
通知が来る。
タイムラインが更新される。
おすすめ動画が出てくる。
次の投稿が自動的に現れる。
指を一回動かすたびに、次の刺激が出てくる。
気づけば、自分が何に興味を持つかまで、プラットフォームの推薦システムに影響されている。
時間だけではない。
フォーカスする自由まで、スマートフォンの中に吸収されていった。
SNSは「自分で選ぶ場所」ではなくなった
僕はSNSがあまり好きではない。
理由は単純で、あれは「自分が見たいものを選ぶ場所」ではなくなったからだ。
勝手に選ばされる。
次に何を見るかを、自分で決める前に表示される。
さらに強い刺激。
さらに短い動画。
さらに感情を揺らす投稿。
スワイプする。
またスワイプする。
また次が出てくる。
それを延々繰り返す。
僕には、あの体験が豊かだとは思えない。
注意を奪い続けることが、そのまま事業モデルになっている。
だから僕は、SNSを「情報を得るための最高の場所」だとは思っていない。
むしろ、何を考えるか、何を欲しいと思うか、何に怒るかまで、他人のアルゴリズムに預けやすい場所だと思っている。
そしてAIは、思考に入ってくる
次はAIだ。
これまで機械が奪ってきたのは、主に身体の時間や注意だった。
AIはもっと内側に入ってくる。
考える。
比べる。
整理する。
文章を書く。
計画する。
判断する。
人間が頭の中でやっていたことの多くを、AIが代わりにできるようになっていく。
便利だ。
圧倒的に便利だ。
だからこそ怖い。
人は、便利なものに抗わない。
僕も抗わない。
資本主義の中では、より速く、より安く、より多く成果を出せる仕組みが勝つ。
そう考えれば、AIが仕事や生活の中に深く入っていくことは止められないだろう。
僕は、それでいいと思っている。
少なくとも仕事では。
僕は、仕事に「完全な自由」を求めていない
ここまで書くと、かなり悲観的に見えると思う。
でも、僕は資本主義そのものを否定したいわけではない。
仕事は競争だ。
顧客に価値を出した人が選ばれる。
より良いものを、より早く、より安く届けられる企業が伸びる。
そのためにAIを使う。
それでいい。
仕事中まで「完全に自由でいたい」とは、僕は思っていない。
自由な生活は、プライベートの時間で十分だ。
仕事では結果を出したい。
合理化できるなら合理化する。
AIに任せられるなら任せる。
機械が優秀なら機械を使う。
それが資本主義だと思っている。
ただ、一つだけ手放したくないものがある。
自分が、何を選ぶか。
そこだけは、人間の側に残したい。
僕が取りに行くのは「判断の民主化」だ
だから、僕は「判断の民主化」を取りに行く。
大げさに聞こえるかもしれない。
でも、やりたいことは単純だ。
その人が何をしたいのか。
何になりたいのか。
何が好きなのか。
何が嫌いなのか。
誰といるのか。
今、どんな気分なのか。
それだけでいい。
そこから、その人にとって最も良い選択肢を出す。
広告主が売りたいものでもない。
みんなが見ているものでもない。
インフルエンサーが流行らせたいものでもない。
プラットフォームが長く滞在させたいものでもない。
その人自身の価値観を、判断の中心に置く。
僕がつくりたいのは、そういうプラットフォームだ。
情報検索は、目的ではない
そもそも、人はなぜ検索するのだろう。
情報が欲しいから。
もちろんそうだ。
でも、その先を考えると、ほとんどの場合は何かを決めるためだ。
今日どこで食べるか。
どこに泊まるか。
どこへ行くか。
何を買うか。
どの会社を選ぶか。
どの街に住むか。
つまり検索の目的は、情報を集めることではない。
「えらぶ」ことだ。
そして人が検索に時間を使う最大の理由の一つは、選ぶことを失敗したくないからだと僕は思う。
店を10軒見る。
口コミを読む。
SNSを見る。
地図を見る。
公式サイトを見る。
また検索する。
これを何度も繰り返す。
僕からすると、その時間はかなりもったいない。
必要なのは100件の検索結果ではない。
今の自分に合う、信頼できる3択。
それでいい。
Google検索の次をつくりたい
Google検索は、インターネット時代を代表する発明だと思う。
でも、検索という行為そのものが最終形だとは思っていない。
検索窓にキーワードを入れて、大量の情報を見て、自分で比較し、最後に決める。
AIがこれだけ発達した時代に、いつまでも人間がその作業を全部やる必要はない。
欲しいのは情報ではなく、意思決定の支援だ。
「仙台駅で、今から一人で静かに夕飯を食べたい」
それでいい。
「今日、恋人と失敗しない夜にしたい」
それでいい。
「雨だけど、子どもと2時間楽しみたい」
それでいい。
「今の自分に一番合う街に住みたい」
それでいい。
人間は希望を言う。
AIとデータが選択肢を整理する。
最後に選ぶのは人間だ。
僕は、その形が自然だと思っている。
SNSの逆をやる
SNSは、プラットフォーム側が「次に何を見せるか」を決める。
僕がつくりたいERABUは、その逆だ。
まず本人の意思がある。
「〇〇したい」
「〇〇になりたい」
そこから始める。
アルゴリズムの目的も、滞在時間を最大化することではない。
無限にスクロールさせることでもない。
むしろ逆だ。
できるだけ早く、その人に合う答えを出して、画面を閉じてもらう。
店を選んだら店へ行けばいい。
ホテルを選んだら旅をすればいい。
イベントを選んだら友達と出かければいい。
人生は画面の中ではなく、画面を閉じたあとにある。
それが僕の考えるERABUだ。
仙台えらぶ!から始める
だから、最初は仙台から始める。
仙台えらぶ!
この街の店、ホテル、イベント、駐車場、暮らし、街、体験を徹底的に構造化する。
その人の趣味嗜好。
時間。
天気。
予算。
同行者。
過去の選択。
その日の気分。
そうした文脈を使って、「今のあなたならこれ」という選択肢を出す。
仙台でできたら、次は全国だ。
全国えらぶ!
そして、いつか世界へ行く。
世界えらぶ!
街を選ぶ。
仕事を選ぶ。
学校を選ぶ。
旅を選ぶ。
商品を選ぶ。
人生には無数の「えらぶ」がある。
僕は、それを広告や人気順ではなく、その人自身の価値観から始めたい。
AIに思考を渡す時代だからこそ、意思だけは人間から始める
AIはこれから、もっと賢くなる。
僕たちはもっとAIを使う。
仕事でも生活でも、AIが考える場面は増える。
それ自体を止める必要はない。
むしろ使えばいい。
僕も使う。
ただ、AIに何を考えさせるのか。
何を最適化させるのか。
その起点だけは、人間自身の意思であるべきだと思う。
「これを買わせたい」ではなく、
「この人は何を望んでいるのか」。
「もっと見せたい」ではなく、
「この人は何を選びたいのか」。
AIによって思考の一部を機械へ渡していく時代だからこそ、
意思決定の主語を、人間に戻す。
それが僕の言う「判断の民主化」だ。
その思想を、仙台えらぶ!で形にする。
全国えらぶ!へ広げる。
いつか世界えらぶ!まで持っていく。
僕は、検索結果を増やしたいわけではない。
人間が、自分の人生を自分で選べる時間を増やしたい。
情報を探す時間を減らし、人生を生きる時間を増やす。
そのための「えらぶ」を、これからつくっていく。